採卵・放流・納入事業

2011.5.23 月浦地区で洞爺湖温泉小学校児童によるヒメマス・サクラマスの放流事業を実施しました。(クリックで写真を拡大してご覧になれます)

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サクラマス

サクラマス

沿革

  • 採卵・放流ともに洞爺湖漁業組合設立当時より継続。

採卵

  • 年間採卵粒数(目標値) 40万粒

納入

  • 発眼卵:道外の漁業組合へ5万~10万粒
  • 稚魚:道内の漁業組合へ20万匹

放流

  • 毎年5月下旬、組合員により仲洞爺、壮瞥温泉地区より稚魚放流。
  • 平成8年頃からは毎年、月浦地区より地元小学生による稚魚放流事業(ヒメマス稚魚あわせ約5万匹)。

サクラマス採卵サクラマス採卵サクラマス採卵サクラマス採卵サクラマス採卵サクラマス採卵
サクラマスの採卵の様子

ヒメマス

ヒメマス(ベニザケ陸封型)

採卵

  • 年間採卵粒数(目標値) 5万粒(不足分は支笏湖より購入)

放流

  • 洞爺湖への放流 (支笏湖より3万~5万粒購入後、稚魚放流)
    • 北大臨湖実験所:約2万匹放流   
    • 洞爺湖漁業組合:約3万匹放流
  • 毎年5月中旬、月浦地区より地元小学生によるヒメマス稚魚放流
  • 毎年5月下旬、組合員によるヒメマス、サクラマス稚魚放流

ワカサギ

ワカサギ

・今後、漁獲量及び注文があれば採卵販売していきたい。

洞爺湖内水面漁業

ヒメマスと洞爺湖内水面漁業

 洞爺湖の漁業権をもっている「洞爺湖漁業組合」は明治26年以来、ヒメマスの原産地である阿寒湖から卵を取り寄せ人工孵化して洞爺湖へ放流を試みてきた。孵化放流が順調に行われるようになったのは、最初の放流から25年あまり経過した大正8年頃かららしい。
 洞爺湖にヒメマスの孵化放流が計画されたのは明治26年である。阿寒湖で一万八千粒ほどの卵を採取し、その半分を千歳孵化場で、残り半分は長流川上流の壮瞥孵化場に持ち込んだ。両孵化場とも本来は、サケの孵化放流のための施設であった。

 しかし洞爺湖への放流は成功しなかった。放流した稚魚の数が少なくて他の魚の餌食にされたり、他の魚と一緒に漁獲されてしまったのが理由だったと言われる。これに反して千歳孵化場が放流した支笏湖では順調に成育した。
 明治31年、支笏湖では1753尾の親魚を捕獲して採卵を開始、日本における淡水魚養殖のホープとして注目をあつめた。そして大沼、中禅寺湖・十和田湖・猪苗代湖・ウトナイ湖・クッタラ湖などへ卵を送り、ヒメマスの「母なる湖」として脚光を浴びるようになった。

 明治41年、北海道水産試験場千歳支場はヒメマスの洞爺湖移植に挑戦した。この年支笏湖で採取した発眼卵43万2千粒を、金毘羅川上流の洞爺湖孵化場に移し、その成長を待って洞爺湖に放流した。しかしこれも明治43年の大噴火で失敗した。この噴火で洞爺湖のヒメマス放流はまた長い冬眠期に入ったのである。

 ところで明治34年に漁業法が、同43年に漁業組合施行細則が公布され、漁業組合が施設を中心にした経済活動が出来るようになってから各地に漁業組合が設立されはじめた。このような情勢の中で川田留吉は湖畔の住民を説得して、ヒメマスの人口孵化養殖を主な目的とする漁業組合の設立を出願した。組合設立許可は、出願以来7年目の大正6年12月であった。

 許可の見通しのついた川田はその半年前の5月、虻田村洞爺湖漁業組合設立総会を開催し、川田は組合長に就任した。大正7年度の事業として、湖岸から180メートル離れた地に孵化工場を造った。多量の湧水があり、水温は夏は14度を超えず、冬も5度を下がる事はないという敵地で、洞爺村ホロベツ(現財田)がその場所であった(この孵化場は昭和4年に虻田村月浦の臨湖実験場のある場所に移された)専用漁業権は大正9年に農商務大臣から許可され免許をうけた。 なお、組合設立時は壮瞥には壮瞥村洞爺湖漁業組合があり、洞爺湖漁業組合は2つに分かれていた。両方が合併して洞爺湖漁業組合に統一されたのは大正12年3月のことである。

 大正7年、洞爺湖漁業組合は支笏湖から30万粒、十和田湖から50万粒、合計80万粒、移入し、大正8年3月孵化に成功、4月幼魚を放流した。最初の放流から25年余、やっと本格的な孵化放流が行われたのであった。ヒメマスの幼魚放流は大正8年から毎年50万から100万単位で継続し、4年間の禁漁期間をおいて、親魚となって回帰すると捕獲をはじめる。また自己採卵も可能になるのである。

 洞爺湖漁協の記録によると大正11年の144万7千粒を最高に、昭和7,8年頃までは100万から300万粒、それ以降は30万から50万粒を孵化放流してきた。漁獲高は昭和5年から20年までは600キロから700キロ、多い年で40トンで平均20トン、昭和37年から38年頃がピークで140トンの漁獲があったという。最近は急激に減少している。


過去の事業(養殖)


 鉱山廃水の流入に起因する湖水の酸性化は、鉱山の閉鎖、石灰による中和でほぼ解決し、 発電所建設によって養殖稚魚が流出する問題は訴訟にまで発展したが、不十分ながらも損害補償を勝ち取って和解した。
 有珠山噴火の降灰がアルカリ性であった事で、湖水の水質が中性となり 養殖に適する環境になったとの、道から指導のもとヒメマス、ドナルドソンの養殖が始められた。
 一方、生態系の変化からプランクトンの発生状態が悪く餌不足の為に洞爺湖のヒメマスが年々小さくなり、成魚になるまでの年数がかかり、漁獲量の減少が目立つようになってきた。又昭和52年、漁協は道の補助金45万円を受けて、実験用の「いけす」2基を設置した。そもそも漁協の計画は、洞爺村曙の孵化場をより水量の多い壮瞥町仲洞爺に移設して、将来的には100万粒を孵化して65万尾の稚魚を育て、そのうち10万尾を「いけす」養殖に、残り55万尾を湖に放流するというものだった。そしてこの年7月、洞爺村浮見堂の沖合約50メートルの湖面に、実験用「いけす」2基を設置、2万尾の稚魚を入れて養殖を開始した。内水面(湖水)では初めての試みであった。
 翌53年には洞爺湖をとりまく虻田・壮瞥・洞爺3町村で併せて120万円の補助金を出してさらに4基を増設、約5万尾のヒメマスを放し、前からの2基と連結、計6基を沖合200メートルに移設して養殖した。
 ところが、この稚魚は8月初旬、水温24度という高水温のため全滅し、この年の「いけす」養殖は失敗に終わった。
 昭和54年からはヒメマスに加えてスチールヘッド・サクラマス・ギンザケ等も養殖、上々の結果を収めたので同56年の漁協総会で「網いけす」による本格的な養殖に着手し、13人の組合員が個人投資の形で13基の「いけす」を設置、ギンザケ・スチールヘッド・ドナルドソンなどの養殖を開始した。しかし個人投資の13基の「いけす」は営利目的で行う養殖事業に必要な区画漁業権の免許をとっていなかったため、胆振支庁水産課の指導で、「いけす」設置1ヶ月後の6月に撤去する事になった。13基以外の6基と道立水産孵化場の4基、計10基の「いけす」は研究用であるため撤去は免れた。
 このような騒ぎのさなか、月浦にある北大臨湖実験場の黒萩所長は、「網いけすは汚染産業である」という見解を表明、「網いけす」による養殖事業を指導してきた道立水産孵化場との意見が対立した。
 この対立した意見に苦慮した胆振支庁は、地元の意思統一が先決という立場をとり、美しい洞爺湖を守る事を目的に虻田・壮瞥・洞爺3町村で組織されている「洞爺湖環境保全対策協議会」に結論をまかせた。
 「網いけす」による内水面養殖はこのような経過を経て平成元年3月で事業は打ち切られ、仲洞爺1基の「いけす」のみが試験用として残っているだけである。
 しかし、かつて「いけす」で養殖されたヒメマスやトーヤサーモン(ドナルドソン)は、洞爺湖の名産として観光客にすこぶる好評であったこと、現在ではヒメマスの漁獲が皆無に近い状況となっていることなどから、地元関係者や組合員の間には「いけす」養殖の再開を望む声が強く、水質保全と「いけす」養殖を両立させ、特色のある地場産業として存続、育成を図る方策を模索し続けている。